時代が変化しても変わらないこと。それは人として大切な2つのことだった。〜70代経営者が語る50年経営して見えたこと〜
ファーストフレームジャパン株式会社 代表取締役 松本 克幸
<経歴>
1946年12月25日生まれ。熊本県立熊本工業高校電気科卒。
協栄電気興業株式会社では、総合設備業(電気・空調・上下水道・環境・防犯メンテ)を行う。水と空気と電気に関わる全般的な仕事をしている。会社のモットウは「誠実に」「スピードをもって」「笑顔で」。( http://www.nagkyoei.co.jp )
ファーストフレームジャパン株式会社では、オーダーメイドの額装ショップを経営。(http://www.ffjap.com )
趣味として、ジョギング・マラソンをしている。毎朝10kmのジョギングはライフワークとして欠かすことができない。
私には、1歳違いのいとこがいて、その彼とよく共に過ごしていたと思います。
具体的な話をすると、彼は小学校のころまでは「ガキ大将」でした。しかし、中学からは勉強が好きになり、高校の時は常にトップクラスでした。一方の私は小学校の頃はいじめられていたので、高校の時から空手部に入り、勉強はあまりしませんでした。そして、新聞配達やら、土木工事、山の下草刈りと、よくバイトをしていました。いつもテストは最下位に近い順位だったのでよく比較されてました。
また、彼は両親がいなかったため、私の母が私と一緒に育てました。私にとっては、彼と一緒にやってきたことが今の強みになっていますし、今の会社も、彼が内部的なことを、私は外をというような、言わずもがなの役割分担ができていました。そのように彼と二人三脚でやってきたから、今まで続けてこれたと思っています。
はい。高校を卒業し、地元である熊本から東京へ上京をして、電気設備や通信設備などをしている会社に就職をしました。そこで先輩から「サラリーマンをやっていてもつまらないだろうから、会社を作らないか?」と言われて。それがきっかけで、20歳のときに運送業で起業をしました。
実は人のご縁です。運送業は元勤めていた会社の資材を東北、関東地方に届ける仕事を日夜問わずやっていました。その後、元勤めていた会社の工事部門も下請けでやらせてもらうようになり、長野県に行きました。
昔は、10軒くらいの農家が1つの電話回線を使って通話をしたり屋外放送をする有線放送というものがあったのですが、その工事の仕事をするようになりました。そのため、いとこは東京に残り運送業を続け、私が長野へ最初は1人で移り、その仕事を、人の採用から工事まで、全て私が行いました。
そのうちに長野の方が忙しくなってきたので、東京の運送業をやめ、本格的に工事業を営むようになり、お客様のご要望にお応えしていたら、今日のように、電気から通信・上下水道・空調設備・土木というように、総合的な工事業者なっていました。