地方起業家の生き残り戦略。それはシンプルに「人との繋がりを大切にすること」だった
株式会社ASO 代表取締役 宮井 智史
浪人して留年したので、卒業当時は24歳でした。卒業後はフリーターになってアルバイトをしながら、休みはギャンブル、夜は飲み会に行く生活を約2年間続けていました。今になって思えば、その2年間はほんとだらだら過ごしていたなと思います。
もちろん当時はだらだらしているつもりはなく、真剣に悩んだりまではなかったけど、その生活からの変え方がわからなかったんです。その間は就職の面接などにも行ったりしていましたが、ちゃんとしていなかったのだと思います。全く雇ってもらえませんでした。
そんな風に路頭に迷っていた時に友人から「HP作らないといけないんだけど、作れる?」と声をかけてもらいました。幸い、少しだけ勉強していたので、引き受けることにしました。それが実績となり、違う友人のベンチャー会社にwebデザイナーとしてジョインしました。
ジョインしたのはいいけど、まだベンチャーで安定しないこともあって、そんな時に弊社があるビルのオーナーから「うちに働きに来ないか?」と誘ってもらったのです。右も左もわからない業界への転身でした。
そうして、3年くらい経った29歳の時に「インキュベーションマネージャーっていう創業支援者の勉強したい?」って声かけてもらって、行かせてもらうことになったんです。二日酔いで授業はほとんど聞いてなかったかも。
でも勉強をさせてもらったので、なにかやらないといけないとそこから色々模索して、31歳の時にエステティシャン向けの就職スクールをやったらいいんじゃないかと思い準備も時間がかかりましたが開校しました。しかし、最終的には失敗してしまいました。
そのスクールの成功は「生徒を就職させること」です。なんとか生徒を就職させようと思い、無理やりやっていました。就職もあまり決まっていかず、就職を促進するスクールが就職を決めさせることが出来ないとしたら、それは失敗だったのかなと思いました。
自分の力量不足は確かにあると思います。しかし、同時に生徒のモチベーションも理由のひとつなのではないかと思いました。モチベーションの問題が生徒のせいという意味ではなく、それは自分が原因として考えました。
すると、モチベーションを上げる前の「本人がどういうことをしたいか」ということを見出せてなかったんだと気づいたんです。本人がやりたいことと違う就職先に、「ここに就職させよう」と強制的になっていました。間違っていたと思います。それがきっかけで「本人がどうしたいか」を掘り起こせばいいのかもって思うようになり、今の事業にも繋がっています。
33歳の時に起業をして、主に別府市の駅近くでシェアオフィスをやっていて、肩書きは代表ですがインキュベーションマネージャーをしています。具体的には、シェアオフィスの運営や起業したい人と一緒に事業計画を作ったり、書類の書き方含めた補助金の申請の手伝いなどをしています。創業する人たちのやりたいことが出来るような支えをする人間でありたいと思って動いています。
それもあります。合わせて、そのような本人のやりたいことを掘り起こす役割をする人が必要だと感じ、自分がしないといけないと思ったんです。
起業を考えている人が持つ、「本人が何がしたいか」もっと大きくいうと「世の中に何を還元したいのか」というのは、人それぞれ違います。子供のためにやりたい、女性のためにやりたい、おじいちゃんおばあちゃんのためにやりたい、介護の世界を変えたいとか。
そういうことは、人それぞれ大小関係なくあると思うんです。それを見出すことができれば、たとえ失敗したとしても「違う方法でやろう」と切り替えることができると思います。業務はあくまでも世の中に何かを還元するためのツールでしかないと思っています。
あとは移住してきて「別府が好きやな」と思うようになりました。開業する時、実家に帰ろうと思っていたのですが、ふと気付くとと「別府に宮井っていうのがいるよね」と周囲の方達が言ってくれるようになってきたんです。ありがたいことに。それに、仕事も基本は別府でしかしてないので、別府で起業すると決めました。