馬鹿をやれる。
ICPO.CEDO / 篠原 裕也
私の場合はずっとスポーツをやっていました。 小学校は相撲、中学高校は陸上、大学からは乗馬をやって今は馬場馬術をやっているので学生のころからずっとスポーツをしていました。
学生時代はフルマラソンを走りきったことも思い出で、スポーツで記録を作っていくこと、ライセンスを取ってステップアップしていくことが楽しかったですね。
また、音楽と英語が好きだったので日本の音楽の歌詞を英語に翻訳するのも得意でした。高校時代はスポーツに専念していたのと音楽をどう英語に訳すかを考えていました。
大学を1年で辞めたのでキャンパスライフはあまりしていません。そのあとは外国に渡り、通訳のバイトをしてその会社の社員になりました。英語は歌詞を覚えていたので外国人の方と「なんちゃって英会話」みたいなものはできました。
辛抱強くなりました。また、諦めないこと、色々な人とコミュニケーションを取ることの大切さを学びました。
それと馬鹿をやれる。仕事上では肩書きで動かされることが多いですが、飲み会の席でも肩書きのままに縛られていては面白くないと思うんですよ。
率先して自分から馬鹿をやれる習慣を身につけていれば、部下の人たちともみんなと仲良くなって結果的にみんなが協力してくれるようになったので、スポーツをやっていたときに身についた馬鹿をやれるという習慣が今でも活きていると思います。
勉強ですね。営業のときに話が合わなくなるなと思うことがありました。
それは相手が持っている知識や学歴についていけなかったときなんです。少なくとも体力には自信はありますけどね(笑)。
話を合わせても見抜かれてしまいます。それで仕事の話も白紙になってしまうことも結構多かったんです。取引先へ訪問する時に肩書きの入った名刺とか自社の商品に自信があるから持っていくんですけど、一緒に仕事をすると、相手のことが気になりますよね。
特にお金がかかわる契約となると、相手も人として仕事をして下さるので会話が深くなったときに自分の商品知識だけではだめなんです。
そのときの業界情報、社会経済、競合他社との比較などなど商品にかかわるその周辺の、幅広い知識を調べる力とかちゃんと勉強している習慣が大切になるんです。
私の本職はアメリカでライセンスを取った産業医なんですよ。あるコールセンターの社員になったときに人事部のストレスケアの部署に配属され、「あまりに もうつ病で悩んでいる人が多いからどうにかしてくれ」と会社から頼まれてハーバードのビジネススクールに勉強しに行きました。
そうしてメンタルの勉強をしていく過程で「さらに深めたい、もっと実際に患者を診たい」と考えるようになり、日本の病院でお世話になりたいと志願し、日本では医師免許を持っていなかったので助手という形で採用されました。
そこで実績を認められて、「学校の教育システムや会社全体の仕組みを変えよう」というミッションのNPOで研究員として採用されました。
それからは人が人を、仕事が仕事をよんで、カウンセリング業をやったり先生の教育指導をしたり、たらいまわしにされた患者さんのケアをしたり、芸能人や スポーツ選手、国会議員のカウンセラーをやりました。そこから理事長になったのですが理事長という肩書きが重くて、思い悩んでしまって自分がうつ病になっ てしまったんですね。
はい。そこで団体を辞めようとしたのですが皆に引き留められ、それからしばらく続けたのですが、私の教え子が「私たちはビジネスの知識も人脈も無いけど気持ちはあります。
一緒に主婦に夢や希望を与える会社をつくりませんか。」と声をかけてくれたことをキッカケにICPOという団体の特別顧問に就任しました。
会社が大きくなっても私が一匹狼として顔を出していく方向性ではなく、これからも縁の下の力持ちとして皆と一緒に携われればいいなと思っていて、どちらかと言うとNO.1よりNO.2でいたいなと考えています。
自分が育っていくことだなと思います。子どもの頃は親から説教されたりしていましたが、20歳を超えたあたりから誰も叱ってくれなくなりますよね。
人は自分の気付かない短所を指摘してもらって成長します。起業によって得られる財産は、仲間たちに短所を気づかせてもらえることだと思います。会社のボ スである私には、普段は言いたいことも言えないですが、飲み会の席で酔っぱらった姿を見せると言いやすくなるんですよ。そのときにみなさん色々な説教をし てくれる。
そうすると同じ世代の中でもより視野を広くしてものを見られるようになり、年上の方でもついてきてくれるようになります。それはやっぱり短所を長所に変えるキッカケを起業したことで見つけられているからなのかなと思います。