クリエイティブを流通させる
株式会社ロフトワーク 代表取締役 / 諏訪光洋
1971年米国サンディエゴ生まれ。 慶応大学総合政策学部(SFC)を卒業後、JapanTimes社が設立したFMラジオ局「InterFM」(FMインターウェーブ株式会社)立ち上げに参画。クリエイティブ業務を経た後、同局最初のクリエイティブディレクターへ就任。1997年渡米。School of Visual Arts Digital Arts専攻を経て、NYでデザイナーとして活動。2000年にロフトワークを起業。
ロフトワーク ホームページ
http://loftwork.jp/
クリエイティブに関わるトークセッション、ワークショップを毎月開催「OpenCU」
http://www.opencu.com/
3Dプリンターやレーザーカッターを使って、すぐにひらめきを形にできる「FabCafe」
http://fabcafe.com/tokyo/
ロフトワークは、Webデザインやプロダクトデザイン、空間デザインなど、クリエイティブに関わる様々なプロジェクトを手がけるクリエイティブエージェンシーだ。約3万人が登録するクリエイターネットワーク「Loftwork.com」を中心に、様々なクリエイティブサービスを提供してきた。クリエイティブに関する学びをシェアするコミュニティ「OpenCU」や、レーザーカッターが置いてあるデジタルものづくりカフェ「FabCafe」も運営している。今回は、今年で創業15周年のロフトワークの代表取締役・諏訪光洋氏に、起業にいたるまでの経緯を伺った。
高校1年の時、D.A.ノーマンという認知科学者の『誰のためのデザイン』(1988)という本を読んだことがきっかけです。ノーマンは「利用している人間が誤解や誤作動を起こさないデザインを作るべき」と、ヒューマンインターフェースの重要性を提唱していました。その本に衝撃を受け、デザインの分野、特にプロダクトデザインに興味を持ちはじめました。
プロダクトデザインは、車や椅子、あるいはスマートフォンなどの製品(プロダクト)のデザインのことを指します。昔のドアは、開ける時に「押せばいいのか、引けばいいのかが分からない」というデザインのものも少なくなく、一方では車にコンピューターの解析による空力特性を考えたプロダクトデザインも生まれてきていました。感性的な格好良さ、デザインという「美」に興味はある一方、「使い方が直感的に分かる物」を作る理系的な「理」をどうアプローチするのかという概念に魅力を感じたんです。液晶デバイスを通した「インターフェース」が自由につくれる今、ヒューマンインターフェースという考え方がUXやHCDという形で進化しつづけたこと、そして高校生の頃『誰のためのデザイン』に出会えた事に感動します。
デザインは好きでしたがデザイナーになるとは思っていませんでした。僕はいわゆる進学校にいたし、高校の時にデザインの特別なトレーニングを受けれるわけでもなく周囲にも話を出来る人もいなかった。 でもどうにかして「デザイン」に関わりたいと思いはじめて一般のカリキュラムにいち早く今でいう「デザイン思考」を取り入れ始めていた慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス (以下、SFC)の総合政策学部に入りました。
SFCの講義で印象的だったのは、藤幡正樹さんという当時世界的に有名なインタラクティブアーティストが先生をやっていた「Color As a Concept(コンセプトとしての色)」という単位外の講義です。当時はWEBも生まれたばかりで(!)、表現できる色は256色と少なかった。当時デザイナーが考える「色」といえば紙のCMYKが一般的な中、その後訪れる「デジタルと色」の関係性についての研究は当時は先駆的でした。楽しかったですね。
いわゆる「就職活動」っていう意味ではまともにやっていません 。今の大学生がみたら仰け反りそうですが、その頃は全てアナログ。ハガキの箱が何個も来て、それを一枚一枚企業に送って …。今のように、一つのエントリーシートを書いて、ネットで一気に送る、ということはできなかったんです。その分、僕のように20社にハガキを送って「もうダメだー」と投げ出す人もいたわけなので真面目な人にとって競争は今より楽だったでしょうね。僕は出版社や広告代理店などのクリエイティブ業界を中心に数社受けてました。今から考えると就職活動という「競争」において準備不足この上ない感じです。当然落ちます。自業自得ですが、自信はあったので落ち込んでました(笑)。ただ一方で周囲全部にこの同じ大量の段ボールが送られ、数百人が集まり百倍の倍率をくぐり抜ける、っていう状況に「ここで勝負するのは無理。僕は違うところで選ぼう」とは考えていました。
そんな中、英字新聞であるJapanTimes紙で「FMラジオ局を立ち上げます」という小さな告知を見つけました。その告知を見て直感的に「ここかな?」と思ったんです。それで、すぐ電話番号を調べて電話をして「働かせてください」とお願いしました。最初は「人も募集していないのだから、いきなり言われても困る」と断られたのですがゴリ押しをして、最終的に「とりあえず明日来て」と。まだインターンという言葉はなかった時代ですが、そのままそこに居座って潜り込みました(笑)。
大学生の頃潜り込んだときには、まだ“InterFM”というステーションネームも社名もありませんでした。周囲に話しても「?」という感じでした。社名もないんですから(笑)。JapanTimesの「FM準備室」という小さな新規部門でメンバーは僕をいれてたったの4人。その後社名が決まり、法人登記をし、ステーションネームであるInterFMという名前やロゴを半年の間に決めていくんですね。1年で10人くらいになり、最終的には30人くらいの組織になっていく。いわゆるスタートアップです。「ラジオ局のスタートアップ」という プロセスに最初から参加できる貴重な経験ができました。
InterFMは、放送や編集作業を全てデジタルで行えるシステムを日本の放送局で初めて導入しました。放送局ですから電波送出など「放送」に関して知識や技術がある人はいましたが、デジタルに関する知識を持つ人がいませんでした。PC間のプロトコルやネットワーク、音源はどんなフォーマットで圧縮されどうPC(その頃は専用のワークステーションですが)間で送られているのか。 幸いなことに、僕はSFCでデジタルに関する知識やプログラミングの知識を身につけていたので、システム関係や編成システムの管理やトラブルの部分でかなり手伝うことができました。
FM放送局ですからさまざまなクリエイティブをつくらなければいけなくなります。親会社は新聞社で、地下には輪転機をはじめ大型の印刷所がありました。フライヤーやフリーペーパーをつくるアイデアがあるのですが予算も人も無い。そういうときに「やります!」と手を上げてました。SFCで多少学んだとはいえ、プロのレベルとは遠いので本来業務とは別に「そこは無給だけどやれたければやってみろ」という感じでした。タイポグラフィーや文字組み、印刷や色の事をJapanTimesのデザイナーに教わったり、 サウンドステッカーを作っては局のMD(Musical Director)に聴いてもらったり。だからどんどん仕事が増えていってあまり家に帰れ無いほど忙しかった。週に1日48時間勤務なんていう時期もありましたが、毎日ほんとうに楽しかったです。この間にデザイナーとしての基礎的な能力、そして「どうメッセージを伝えるのか」という、デザインの本質を学ぶことができたと思います。4年ほど働いた時には 「クリエイティブディレクター」という肩書きをもらっていました。
本質的には芸術もデザインも経営も全部同じだと思っています。ただ僕はアートよりも デザインのほうが向いているでしょうね。もともとが理系なので合理的に詰める。「よいデザインは何か」をロジカルに考えてしまう。
デザインを作る作業で「トライ&エラー」を繰り返すことも好きです。ちょうどデザイン全般がアナログからデジタルに移行する時期でした。そこでマシンパワーを引き上げながらトライアンドエラーをする。デザイナーやクリエイターの多くは子供の頃からトレーニングをしていますが大学卒業してからデザイナーになれたのは「デジタルデザイン」の立ち上げ期でいち早くその環境を手に入れていたから。ロジカルさや戦略性が芸術にも必要でしょうが、理が先に立っては芸術家としては二流に止まるでしょう。デジタルとデザイン、そしてインターネットという変化する場に出会えた事は幸運です。
株式会社ロフトワークと、クリエイティブディレクター・福田敏也氏がプロデュースを行いオープンしたFabCafe Tokyo。美味しいコーヒーを飲みながら、デジタル工作を楽しむことができる。