ニーズにフォーカスしたデザインを
株式会社エイアール / 菊池 美範
絵を描くことが昔から好きで得意でした。デッサンすれば先生に褒めて貰えていましたね。中学3年生の時に初めてデザイナーという職業を知り、社会に役立つデザインを生み出したいという気持ちが生じて、デザイナーを志すようになりました。
愛知県にある、瀬戸窯業高校のデザイン科に入学をしました。陶磁器産業のデザイナーを育成する為の高校です。元々は大学には行かずに、デザイン科を卒業したらデザイナーとして就職をするつもりでした。
ただ、デザイン科だったら何でも良いやと思って入学したのですが、実際に入ってみると、瀬戸物などのデザインは自分には不向きだと感じたんです。そこで、改めて大学でデザインを学び直す為に、多摩美術大学のデザイン科に入学をして、グラフィックデザインを専攻しました。
美大という事もあって周りには変わった友人が多かったですね。何故か軍服を着て学校に通ってきている先輩とかもいましたよ(笑)。後は映画サークルの先輩に竹中直人さんがいました。中央線の中でいきなり芸を始めて、むちゃくちゃに素敵な方でしたね(笑)
卒業するまで勉強と実習、膨大な量の課題制作を重ねるので、ほとんど実習で出される作品の制作やデザイン関連の勉強をしていましたね。美大の学生は意外と街へ出て遊ぶ時間は無いのですよ。
6ヶ月間のアルバイトの契約が終わった後、制作プロダクションに入社をしました。当時は下着をバックに詰めて会社に泊まり混む毎日を過ごしました。驚かれ るかも知れませんが、70-80年代のデザイナー達はそれが普通でした。私の場合は、元々身体が弱かったこともあり、過酷な労働環境で半年後に体調を崩し て辞める事になりました。
親友が働いていた無農薬野菜の販売会社でお手伝いをしながら生計を立てようか、と考えていた頃に、友人からデザイン会社を作るから手伝って欲しいと言わ れてそちらの共同代表として参画する事に決めました。それが1984年ですね。その後1985年で有限会社化して、経営者としての人生がスタートしまし た。
取り敢えずマンションの一室を借りて、毎日のように出版社に売り込みに行って、頼み込んで単発の仕事を頂きに営業を始めました。知人の紹介なども一切な かったので、雑誌のレイアウトを数ページ任せて貰えれば万々歳です。本当に細々と、一日の分の食費をどうにか稼ぐ毎日でした。
任せて貰った仕事でキッチリ結果を出して、その後は表紙の仕事とか大きな仕事を任せて貰えるよう努力をしていました。