気持ちとブレない魂
株式会社さんばん / 柴田 紀之
私が通っていた高校は群馬のクリスチャンスクールで、かなり自由な校風の学校でした。自主性をとても重んじてくれる学校で高校生活を送れたことはその後の 人生でとても役に立っていると思います。自由とは自分の行動に自分で責任を持つことなんだということを多感なあの時期に学べたことはとても大きかったです ね。 今だから言えますが、お酒を飲んでサラリーマンとケンカしたり、学校に潜り込んで礼拝堂に泊まったりと、かなりやんちゃなこともたくさんしました。 その結果、進学校なのに現役での大学合格率はとても悪かったですね。 これも自分自身の行動に責任を取る結果と言う点では良い教訓だったのではないでしょうか。 一言で言うと「ビバリーヒルズ高校白書」のような高校時代を送っていました。
大学生の頃は新聞記者になりたくて、地方紙の東京支社でアルバイトをしていました。本を読むことが好きだったので、何となく漠然とものを書く仕事がした かったので。 ただ、小説家になるには才能がいるじゃないですか。しかし、記者ならそこまで才能は必要じゃないかなと思って。新聞記者の中でも、私は南の離島や北海道の 僻地のような場所が大好きだったので、全国紙にはあまり魅力を感じず、将来はローカル紙の記者になって身の回りの小さな出来事を取材したいと考えていまし た。 当時アルバイトをしていた新聞社は待遇がとてもよく、大学生のアルバイトでもタクシーを使って家に帰ることができたり、給料も高かったので、バイトばか りして大学にはほとんど行っていませんでした。 そんな中、夏休み中に映像制作会社で働いている先輩から声をかけられ、英語の教材ビデオの撮影を手伝ったのがきっかけで、映像制作の仕事をはじめて体験 しました。 このときに、テレビの仕事や映像に関わる仕事も面白いなと感じるようになりました。 夏休みも終わり、学校にも行こうと思っていたのですが、知り合ったディレクターさんから連絡があり、他の撮影現場にも手伝いに行く事になりました。 結局、学校にはほとんど行くことなく、「取得単位数0」という名誉ある成績を取得し、大学を辞めて制作会社に入ることにしたのがこの業界に入ることとなる キッカケです。
大学にはほとんど行かなかったので、大学の友人はほとんどいないです。ただ、バイトの友人は今でも仲が良く、業界は色々違いますが今でも一緒に仕事をした りします。 また、好きな事を仕事にしている人達を見た事は大きかったですね。 学生が想像する、朝に出社して夕方まで仕事をするというような会社ではなく、いわゆるマスコミ、中でもフリーランスが成功の頂点のというような型にはまら ない働き方を知ることで、自由に生きても良いんだと言うことを身近に感じ、人生の選択肢が広がった事は良かったと思います。
最初はADになりました。学生時代に手伝っていた制作会社で働いていました。その会社はいろいろな仕事をしていたのですが、大きな番組は扱っていませんで した。もっと大きな仕事をしてみたいと考えていた頃、「紅白歌合戦」や「ハウマッチ」というテレビ業界の歴史に残るような大きな番組を演出してきたディレ クターさんを紹介していただき、その人と大きな番組を制作する機会がありました。やはり、大きな仕事は面白いなと感じた事もあり、その方に勝手に弟子入り をしました。いわゆるカバン持ちです。 その師匠からTVの演出の基礎を学ぶことができました。 師匠がいなければ今の自分はいないと思います。