繰り返される単調な日々の中、情熱を持って新しいことを想像・創造できる人間になる
株式会社リバースプロジェクト / 龜石太夏匡part2
大学2年生の時に、ちょうどバブルが崩壊して、社会が変わる節目を見ることができたんです。今まで売り手市場だったのに、就職率が下がって、就職氷河期がきました。私自身は、映画を作る夢があり就職する気がなかったので、何も影響はなかったですけどね。私は男三兄弟の末っ子で、長男はサラリーマンやりつつ起業を夢見ていて、次男は洋服のスタイリストをしていました。そのころに、自分たちが着たい衣服を売っているお店がないから、洋服屋をやらないかと兄弟間で話になったんです。
それで、私が大学3年生の時に、パイドパイパーという小さな洋服屋を3人兄弟と共に立ち上げました。当時は、自分で服を作る概念があまりない時代でしたが、自分たちで洋服作ってストリートからブランドを立ち上げたんです。最初は見向きもされなかったけど、あるきっかけでブレイクして雑誌にも取り上げられました。
洋服屋をやりまがら映画を作るためにも、自分も役者として現場に入っていこうと考えて、さまざまなオーディションを受けました。いくつか仕事をして行く中で、1つターニングポイントがあって、あるドラマの良い役に決まったんだけど、洋服屋が大阪に出店する時期と重なっていたんですよ。洋服屋は、規模が広がってきていて、これからの可能性は十分ありました。3人で立ち上げて、自分もそれなりに役割があったので、真剣に考えました。俳優は、俺個人の夢だけど、洋服屋は兄弟や自分の仲間もそこに就職していて、みんなの夢だったんだよね。それで、洋服屋を選んで、その配役を断って大阪へ行きました。その時は映画を作るのは、どこかであきらめていた自分がいたと思っています。でも、脚本は書き続けていました。
28歳くらいの時に、大阪のお店が一段落して東京に帰ってきて、アパレル業界で、自分が何をできるのかを真剣に考えたんです。当時は、ポルシェに乗って、レインボーブリッジの見えるマンションに住むような生活をしていたんです。だけど、この仕事は本当に自分のやりたいことなのか疑問に思っていたんです。実際、僕はデザインもできないし、経営者でもないただの店長だった。もちろん、店舗で人をまとめるのも立派な仕事だけど、本当にこれがやりたい仕事なのか分からなかったですね。
ある日、学生の伊勢谷が店に来て、意気投合して脚本を見せたら、気に入られて「新しいのが見たい」って言われたんです。それから何年かぶりで、脚本を本気になって書き始めました。それが『カクト』という映画になりました。2人で映画を作ったのをきっかけに、もう一度やりたいことに挑戦しようと決めて、会社を辞めました。
自分で映画を作るまでは、他の仕事はしないと自分でルールを決めました。車も売って、マンションも小さい所に引っ越して、貯金を崩しながら生活していたんだけど、30歳になっても結局、映画は作れなくて、お金が無くなって実家に帰ったんです。
今振り返ると、親から小遣いもらって、ニートみたいな生活していましたね。自分にやりたい目標や進んでいく道があったので、アグレッシブに活動はしていました。映画の予算は少なく、ギャラはたかが知れていて、それだけでは食べていくことはできなかったです。そして、自分が映画の道に進んでいく上で、40歳までに自分の目標を達成できなければ、この道は辞めようと決めました。自分で書いた脚本を、自分でプロデュースして、公開へと持っていくことを目指そうと心に決めました。目標達成のために、31歳から34歳までラブホテルで働きながら、夜は脚本書いて、昼は映画に出資してくれそうな人と会ったりしていました。伊勢谷と二人で2作目になる脚本を考えると、最後には環境問題に話が向かっていました。環境問題に対して、どう向き合って自分の行動に紐付けていくかを考えていましたよ。
ある日、子供が親を殺したり、親が子供を殺したりする事件が増えていることに、疑問に感じたんです。私は、おばあちゃん子で、おばあちゃんが亡くなった時、すごく悲しかった。おじいちゃん、おばあちゃんって家族に対して身をもって「死」ということを、教えてくれる存在だと思います。赤ちゃんの時から大人になるまで、自分を愛してくれた人が最初に亡くなるんですよ。そういう辛い経験があるから、命を大切だと思うし、人を大切にできるんです。そういうことを、人類は繰り返し教えられて来たのだと思います。でも、今ではおじいちゃん、おばあちゃんには、お正月くらいにしか会わないし、死に対して身近でなくなってきた。これはテーマにできると思って「ぼくのおばあちゃん」って映画を作ったんです。そこで初めて自分で脚本、プロデュース、公開までして、自分の目標を達成できたんですよ。