何パーセントで人と向き合うのか
grico HARAJUKU / エザキ ヨシタカ
大村美容専門学校卒業。都内の大手サロンに入社し、持ち前のセンスと技術を生かし1年半という異例のスピードでスタイリストへ。その後フリーへ転身し、フリーの状態で月350万以上の売り上げを誇る。2009年原宿に「grico」をオープン。業界を代表する美容師として、業界誌•ファッション誌の巻頭•表紙、芸能人やモデル、コレクションのヘアメイク、国内外セミナー講師などで活躍。
2012年からは、美容師の新しい在り方作りとして、アパレル業や、イベント企画など、常な新しいアプローチを仕掛け、現在では芸能人、著名人等とともに美容業界以外でも多くのメディアから注目されている。
【grico HARAJUKU ホームページ】
僕の家は母子家庭で母親に迷惑をかける訳にはいきませんでした。そのため勉強に励み、進学高の長崎東高等学校へ入学しました。その当時は、警察官になりたいなど様々な夢があったのですが、逆に大学に対しては遊んでいるようなイメージがありました。今はそんなイメージではありませんが。その当時、「親に負担をかけてまで大学へ行くより、自分が早く仕事を見つけて親を楽にさせたい」と思いました。周りの人を幸せにしたいという思いがありました。
大学に行かない就職先を色々探した結果、美容師に辿り着きました。福岡の美容専門学校に行ったのが楽しかったというのも決め手でした。美容師になるからには日本一になると決意し、その当時流行っていたお店に入りました。すぐにスタイリストになって22歳ぐらいには独立し、月収二百数十万を得られるぐらいの力を持っていました。
起業する1ヶ月ほど前に、育ててくれた祖父が亡くなりました。祖父は抗がん剤で意識が薄れている状態にも関わらず、僕を抱き寄せて、誰もいない時に「今悔しい事が一つだけある。今こうしている間も江崎の人間を誰が守ってくれるのかと考えるとすごく悔しい。」と話してくれたのです。僕の祖父は何百年と続いている江崎鼈甲店を営んでいました。この時、祖父が言った「江崎」というのは家族だけでなく、社員の人も含んだ意味です。家族だけだったら、「家族」と言いますから。
僕は祖父の意思を受け継ぎ、江崎を守れるよう、起業する決意をしました。
祖父が亡くなった翌月ぐらいに、アシスタント付きで自分のお店を出せるというヘッドハンティングの話を頂きました。これで、祖父の言っていたみんなを守る事が出来ると思い、この話にのりました。でも、開店前ギリギリの所で、先方から、「なかったことにしてくれ」というメールが来て、頭が真っ白になりました。
法律相談所へ問い合わせたりしましたが、お店の話がなくなった現状を変える手立てはありませんでした。とりあえず、お客様をなんとかするしかないと思い、自分の貯蓄から、現在東京にあるgricoのお店の半分を貸して頂きました。看板がない状態のままのオープンでした。
オープン後は、元々力はあったので、次の月には雑誌などに載せて頂きました。
22歳で独立した時、自分が生きていけたのはお客様が居たからです。夢を描くにしても、何にしてもお客様が来て下さらなかったら実現できません。お客様が来て下さることで、くじけそうになった時も幸せな言葉を頂いて、お金も頂けるってとても素敵なことだと思います。
本当の家族には年に一回ぐらいしか会えませんが、お客様とは月に一回、もしくは週に一回会うので、年間でどちらと多く過ごしているかというとお客様の方です。だから、お客様も家族と捉えています。
そういった家族(お客様)の方に、自分に教養や人間的器があれば言葉のプレゼントをする事が出来ます。経験があれば、一人一人のお客様にあった言葉をプレゼントして、家族という関係作りができると思っています。