素敵になって欲しい
Dear Image / 工藤 亮子
とても真面目な学生だったと思います。父親が高校の英語教師で、幼い頃から厳しく育てられたので、真面目であることが当たり前の家庭環境でした。
勉強や門限についても厳しく指導されていました。職員室に行けば父親がいて、成績や素行もすぐに耳に入ってしまうような環境でしたよ。
部活動はバトミントンをしていたのですが、高校2年生のときに父の転勤で長崎県の対馬という島に転校した後は、バドミントン部が無かったため、陸上部のマネージャーをしながら受験勉強に励んでいました。
大学は、家庭の方針で、私立を受験させてもらえませんでした。高校生の頃は、自分も父親と同様に、教師になるものだと考えていたので、学部は教育学部と決めていました。
そして広島大学と長崎大学に合格し、小学校教員養成課程でも、中学校と高等学校教諭の一種免許状が取得できるということで広島大学への進学を決めました。現在は、教育学部と学校教育学部は統合し、内容も変更されていると思います。
大学に通学するため、親元を離れ、広島で一人暮らしを始めました。教師以外にどのような職業があるのか知りたかったということもあり、授業は真面目に受けながらも(笑)、レストランや結婚式場での接客、塾講師、美容院の受付など様々なアルバイトを経験しました。
サークルはバドミントンに入り、副会長も務め、充実した毎日を送っていたと思います。
当時の広島大学の小学校教員養成課程は、入学後所属したい教科に希望を出して、教科が決定するというものでした。私は英語教育の研究に希望を出したのですが希望が通らず、第二希望の音楽教育に所属することになりました。
音楽研究室に所属しながら、英語教諭に必要な単位を取得していた為、大学の単位数が多かったですね。一度高校時代に諦めていたピアノや声楽の授業は苦痛でした(笑)。
大学では小学校・中学校・高等学校の教諭になるための基礎知識を学びました。
はい。教師にはなりませんでしたが、教えるということは好きですし、アルバイトの経験は今に活きていると感じます。色々な職種に取り組んだ経験や接客の基礎を学ぶことができたと思っています。
また、大学の研究室やアルバイトの仲間は現在でも仲が良いので、その点も今に繋がっていると思います。同じ時代を過ごした仲間との結束は固いです。
大学3、4年生のときに、3回教育実習に行ったんですが、教育実習に取り組む周りの学生は、本当に子供に対して熱心で、自分にはそこまでの情熱がないように感じたんです。
就職活動を進めながら教員採用試験も受験しましたが、どちらも上手くいかず、今後の道を考えたときに「やり残したことは留学ではないか」と考えたのがアメリカへ行くきっかけです。
アメリカという国に住んで自分の目で実際に確かめてみたいという気持ちもあったと思います。
地元に戻り、両親に留学の話をしたときは大反対でした。説得を続け、1年間という留学期間を守ることと、帰国後は高校の教師になるという2つを約束した上で、留学を許してもらいました。
最初は語学学校と短期大学に通いました。初めての長期留学で、何もわからない状態でした。留学前は、カリフォルニアといえば青い海とヤシの木が広がる風景を想像していたんですが、イメージとは全く違う、田舎の町でホームステイすることになりました。
最初は動揺しましたが、改めて考えると、最初の留学先が田舎で良かったと思います。日本人が少なかったので、どうしても英語を話さなくてはならない環境だったからです。