起業家がドラえもんに学ぶべきこと
キャスタリア株式会社 / 山脇智志
例えば、テキストだけで投稿するよりも写真を添付して投稿したほうが反響は大きいですよね。
つまり、ソーシャルラーニングにおいて重要なことは、「学ぶとは自分のネットワークの質を最適化することである。」ということ。
言い換えれば、学ぶということは、「情報の摂取」なんです。情報の消化手段というものが学びであることになったときに、自分に入ってくる情報というものが自分にとって「これは学べているんだな」という風に最適化されていればいい。その中で「学び」というものが出来上がってくるはずだということです。
その際に重要なことは、
「情報というものは属人的なものである。」ということを認識すること。
なぜなら先程、コンテクストのお話の際に話したように、同じ事であっても誰がその発言をしたかによって情報の価値というものが変わってしまうからです。
すべてがそうとも言えませんが、そう表現しても良いかと思いますよ。もう一つ、これはソーシャル上でもリアルでも変わらないことなのですが、わかりやすく言えば、「どんなに英語ができても話しがつまらないやつは友だちができない」ということです。
もちろん、同じプロトコルとして英語を喋れることは当然のことです。
例えば、週末にアメリカ人が特に仲良い訳ではない日本人を誘って遊びに行くかというと、行かないわけですよ。日本人は基本的につまらないと認知されていることが多い(笑)でも例えばですが「それほど英語を喋れるわけではないけど、DJをやってる」という人だと、アメリカ人の「悪い」友達が周りに集まってくるわけですよ。彼らはプロトコルである英語力を最低限持っていれば、互いに何か共通のもの見出してコミュニケーションできて、友情を持ち始めることが出来るわけです。
当たり前のことですが「こいつとは別に友達になりたくないな」っていう人は自分のネットワークから段々と落ちていくわけです。それは別にソーシャルだろうと何だろうと一緒です。
ただ、本来だったら電話もかけなければ、会いもしない。けれども、とりあえず知り合いだなと思っている人同士が、何かが起きた時にそれがちゃんと伝えられる、という「場所」がまさにソーシャルネットワークじゃないですか。
ソーシャルな空間というのは人と人とをつなぐ媒介として、ネタが必要なわけです。そこで友好的なのが媒介としての記事、音楽やビデオといったものです。
ソーシャルラーニングとして我々が言っているものは、その媒介となるものが「学びになりそうな何か」であると考えているんです。
例えば、ハーバード大学の法哲学の講義だったのか、ウィキペディア上での「ネアンデルタール人」という言葉なのか。
その媒介となるものが何なのかということが、コンテンツについての話。
加えてコンテクストとしての属人的な部分が付随してくるわけです。
一方で、twitter上での議論となると、日本人は積極的に意見を述べ始めます。そういう意味では、日本人も他の民族と同じで、こういった場には参加しやすいですね。匿名性を意識する方も多いようですが。
ただ、個人の本名が特定できないと友達なんてできません。
そういう意味では、ウェブ上においてもリアルな生活がそのまま上がっていると言えます。リアルな世界での「話が下手」や「声が小さい」といったことはソーシャルメディア上では反映されません。
重要なことは、コンテンツとしての中身と、そのコンテンツをどういった形で運んでいくかというコンテクストとの掛け算で生まれてくる。それがソーシャルの本質です。
それをいかにしてラーニングというところに持ち込むかということをやっているのが我々です。
先程申し上げたように教育とは情報を意味します。情報はウェブ上においてはコンテンツであり、データです。そこで僕はこう考えました。
例えば、
「NHKスペシャルはものすごい役に立つ」と
「昨日やってたNHKスペシャル「人はどこから来たか」で知ったのだけど、アウストラロピテクスとクロマニョン人は同じラインで発展したヒトではなかったそうだ。知らなかった!」
という同じ事象に対して生み出された2つの情報は等価値ではないですよね。
後者は自分にとっては学びなんです。その行為によって自分が一回り賢くなるとか、自分が知識や能力を得られるということを意味します。