「落ちこぼれだった自分を変えた『未来ノート』
株式会社アイエスエフネット / 渡邉幸義
日本デジタルイクイップメント(現:日本HP)入社(1986年)
株式会社エヌ・アンド・アイ・システムズ 代表取締役副社長(1996年)
株式会社アイエスエフネット設立(2000年1月)
僕はTwitterとはチャンスのツールだと思っています。今アカウントのフォロワーは2万人を越えており、日々ダイレクトメッセージも増えてきていますが、時間が許す限り、チャンスを求める若者には会おうと思っています。
いえ、僕は当然だと思っています。そもそも起業家というのは人が好きじゃないとやっていられませんし、僕も意欲のある若者とのコミュニケーションは特に大歓迎しています。これまで若者が起業家に近づく機会なんて滅多にありませんでした。だから、起業家ってどんな人なんだろう?何か怖いな、触れると爆発してしまいそうだな、と皆さん色々な思いを張り巡らせていたわけです。ところが、webの浸透やTwitterなどのソーシャル・メディアの登場により一気に起業家との距離が一気に縮まりましたよね。このチャンスを活かさない手はないと思いますよ。
昔は泣き虫でした。よく一つ年上に泣かされていましたね。それを見た父に「これはイカン」と思われ、柔道場に引っ張って連れて行かれました。最初は嫌々だったのですが、徐々に肉体面も精神面も鍛えられていきました。中学と高校では剣道部に所属し、部内では最強の剣士でした。柔道も剣道も共通している事が、練習の終わりに黙想をする事です。それが現在にまで続く、ブレない精神を維持するという一つのルーツになっていると思います。
当時、ガソリンに変わる新しい燃料開発の一環である水素自動車の研究で知られており、「この新しい取り組みにトライしたい」というのが進学の理由でした。大学では一番厳しいと言われるアメフト部に所属し、研究に勤しむ傍ら泥まみれになりながら心身を鍛えました。
研究者と営業職、どちらで就職するか悩んだ末、DEC(日本デジタル・イクイップメント・コーポレーション/現、日本HP)に営業職として入社しました。当時DECはIBMの次に大きなコンピューター・ベンダーとして、既に日本でも有名になりつつありました。これまで経験したことのない新しいコンピュータの分野で経験をつけ、力を発揮したい!という希望を胸に、入社を決意したのです。
営業を選んだ理由としては、父が経営者だった事もあっていずれは起業をしたいと漠然と思っていたからです。あの時、化学者の道を選んでいたら、今とは全く異なった人生を歩んでいたと思います。
はい。やっぱり身近な経済や経営に中学生の頃から興味がありました。私の出身地であ栃木県足利市は織物の繊維産業が栄えた町なんです。絹糸をとっていた地場産業をもとに、軽工業が盛んになり、それが輸入品に押されるようになると、繊維産業自体が競争力を失う。すると街自体が衰退していきます。
その後、足利市は自動車や家電メーカーの部品工場などが栄えるんです。そして近所にいっぱい大手メーカーの協力工場ができます。しかし工場が海外へ移転するとまた街全体が不景気になっていく。 私が産まれてから3〜4回産業構造が変わり、その中で景気が上がったり下がったりしていました。
中高生時代は小さなコミュニティや地域社会が世界や国から受ける影響を抜け出して自助努力でカバーすることの難しさを感じていましたね。
仕事を始めて何日か経ってから、「遊んでいていいよな」と言われた事は今でも忘れません。工場の方達は暑い中働いているわけですが、私はクーラーがきいた部屋でデザインをしていたんです。どうやら、楽な仕事をしていると思われたのですね。パソコンが熱でダウンしない為に冷房を効かせていたのですが、中々理解してもらえませんでした。製品のデザインには、作業員との交渉が必要不可欠なのですが、よく無視され、不遇な時代を過ごしましたね。ただ、昔からの免疫があったので、冷静に対処していました。
経営学を通して様々な仮説を勉強してきたので、その結果を反映しないと勉強した意味がないと考えました。そのためにはコンサルティングファームに入り経営コンサルをすることになるのが一般的ですが、経営コンサルタントにあまり魅力を感じませんでした。
それよりもベンチャーキャピタリストになって投資し、育成し、上場させるという仕事にやりがいを感じました。結局、ベンチャーキャピタルで9年間働き、いくつかの企業を上場させることになりましたが、とにかく遮二無二働きました。 そこで痛感したのは、社会に出ると実践ですし、お金を頂き、プロとしてやっているので「教えてください」という言葉はあり得ません。 知っていて当然、できていて当然なのです。 この時になって大学時代にもっと勉強しておけばよかったと悔やむことばかりでしたね。なので、社会人になってからは遅まきながら学生時代以上に勉強しました。
VC時代は比較的ITやデジタルコンテンツを扱う会社に投資していました。産業が若く、自分の感覚がユーザーの感覚に近くて自分のアドバイスが受け入れやすい産業だったからです。
しかし、いくら自分たちの会社の資金を投資して会社を応援しているとはいえ、そこの会社の社員ではないですし、実際に入って手伝いたいという気持ちが出てきました。そこで、自らがベンチャー企業の中に入り、働くことに挑戦しようと思い、31歳の時にゲームソフトの制作会社に入りました。
そこで感じたことは、外からアドバイスをするのと、アドバイスをされて実践することは根本的に違うということです。VC時代は、自分では実践的と思っていても机上の空論に近いアドバイスをしてしまいがちでしたし、現場に入ると原理原則を曲げやすい状況になります。そういう意味で成長過程にある未熟なベンチャー企業で働く日常を学びました。
落ちこぼれでしたね。通り一遍のマニュアルに嫌気が差して、前代未聞の研修ボイコットをしたのです。開業以来の問題児というレッテルを貼られてしまいました。
「この会社は自分には合わない」とすぐにこの会社を辞めようと思いました。ただ、親に相談した時に「石の上にも3年」と言われ思いとどまる事にしました。 しかし、結局2年と8ヶ月でどうしても我慢できず部長に辞表を提出したのです。
いえ、意外にも部長に慰留をされました。僕は落ちこぼれだと思っていたので、正直ビックリしました。押し問答の末、「辞めない為には何が必要だ?」と聞かれ、率直に「所属部署を変えて下さい」と申し上げました。もうどうにでもなれという気持ちと、心機一転して新しい部署でやってみたいという気持ちがどこかにあったのだと思います。
数日後、部長から呼ばれて「君を新しくできた営業の部署移すことにした」と言わたのです。驚いたのと同時にこんな我が儘な僕にここまでしてくれる部長に尊敬の念を抱きました。そして、この部長の誠意に少しでも応えようと、辞表を撤回して心を入れ替える決意を固めました。
そこで始めたのが未来ノートです。このノートが、僕のサラリーマン人生をサクセスに導いたと言っても過言ではありませんよ。
2008年に本にもなったのですが、時間の管理術です。ノートにやる事を全部書き出します。最初は1日10件やる事を書き出します。8時間をかけてその10件を消化していたのが、次第に効率化され、8時間で100件の仕事を行えるように工夫できるようになります。圧倒的に営業成績があがり、トップセールスになることができました。