お金が出せない事こそ、価値がある
RCF / 藤沢烈
誰もが一度は、どこかで「藤沢 烈」という名前を聞いた事があるでしょう。
しかし、藤沢氏がいったい何者で、どこで何をしているのか?ご存じの方は
少ないように思います。
学生時代に年間で3000人もの人に出会い、サロン経営、
世界ナンバー1の経営コンサルティング会社、マッキンゼーに入社、その後独立したという経緯。
そして、独自の世界観。
今日は、RCFの藤沢烈代表の素顔に迫ります。
一橋大学社会学部に入学しました。社会学部は「社会で勉強をする」学部だと自分で勝手に解釈して、学校には全く行きませんでした(笑)。北は北海道、南は福岡まで飛び回り、全国のユニークな人に会ってインタビューして紹介するという、「アドレス」という雑誌を発刊していました。
高校時代からミニコミの編集をやっていたのです。当時は自分を中途半端な人間だと思っていました。周りを見渡すとやたら勉強ができるとか、スポーツが得意とか、芸術に才能を発揮しているなど一芸に秀でている友人がいたのです。劣等感を感じつつも、面白い仲間が身近にいるという事で、彼らを取材して回りました。 そして、いざミニコミを完成させるととても評判が良かった。リーダーを紹介する事自体にも十分価値があることに、気づかされた瞬間でした。
全くありませんでした。目の前に面白い人が現れ続けるので、面白いなと思って話していたら、「今度こんなやつに会ったら?」と言われ、会って話してみるとまた面白い。それを繰り返して、気づいたら3,000人に1年で会っていました。
あえて目標を決めなかった事は大きく僕の人生観に影響を与えました。目標を考えると自分の思考に制限を加えてしまうと学んだのです。マッキンゼー時代はうんざりするほど、目標設定と目標達成の毎日でしたけどね(笑)。目標を持たずに、目の前の事に真剣になる事が、大きな山に登る為に必要な唯一の事だと思います。
自分だけ面白い人物を知っているのは勿体ないと考えたのです。最初は、下北沢でパーティーを開き人を紹介していましたが、結局知っている人しか集まって来ない。知らない人が勝手に来て、集まり、新しい企みが生まれるようなサロン空間を作りたかった。そこで1997年から準備して、98年に王子でレストランバーを立ち上げました。
当時の繋がりの中には、ETIC.や、議員インターンシップをやっているドットジェイピー、ジョブウェブがありました。そうしたネットワークの中からは、その後上場経営者が10人、国会議員も10人は生まれています。
2001年にレストランバーを畳みました。お店はユニークな試みでしたが、経営的なマインドやスキルが当時の僕にはありませんでした。今からコンサルしたい位、派手に失敗しましたね(笑)。打ちのめされた自信喪失の中、僕はもう会社にでも行くしかないなという感じで、目標もなく就職活動をしていました。
それまでは面白い人を表現して紹介する事をやっていましたが、それだけでは駄目と感じたのです。当時も様々なNPO法人や学生団体がありましたが、今でも残っているのは、お金が回っている団体のみ。継続的に実行できるだけの人件費を捻出できたり、新しい事業に投資ができた団体しか維持できないのですね。
だから、お金が回る仕組みが組織には必要だと感じ、学びたいと思っていました。そんな時にたまたま大学に「2週間で10万円の報酬のインターン」というポスターが貼ってありました。その日暮らしの自分は「これはスゴイ!こんなに貰えるのか!」と思い、見てみると、マッキンゼーのサマーインターンだったのです。最初はお金に目がくらんだだけ(笑)。行ってみると面白く、経営が学べるかもしれない、という事で2001年に入社しました。
3年たったら独立して、同年代が経営しているベンチャー企業やNPOを手伝いたいと思っていました。入社してから2年目ぐらいに山内幸治さん(NPO法人ETICディレクター)に久しぶりに会った時に、「手伝ってよ」と言われました。そこで23時くらいにマッキンゼーを抜け出し、渋谷のETIC.に行って夜中2時まで議論して帰る・・・という事を毎週続けたのです。
そのうちに、ETIC.が地域活性の為の規模の大きなプロジェクトを始める事になりました。そちらを本格的に手伝う事になり、マッキンゼーを卒業しました。今でこそTABLE FOR TWO等もありますが、2003年当時は外資系コンサルティング会社を辞めてNPOに行くのは珍しかったですから、かなり不思議がられましたね。 その後は赤堀広幸さんというコンサルティングの師匠の方と『カスケード』というコンサルティング会社も立ち上げました。